宮代NOWの雑記帳
埼玉県宮代町の住人が吐露する日々思うことや出来事
ホタルの光
この時期になるといつも憂鬱になる。そして悲しくなる。
各地で「ホタル鑑賞の夕べ」みたいなものが開かれる。
何人の人が訪れたとか「自然のすばらしさを感じた」とか、新聞記事やマスコミが取り上げることが多くなる。
そして子供たちは口々に「綺麗だった」とかたり、大人たちは「自然はすばらしい」と。そして主催者は多くの人が訪れたとほくそ笑む。
ところで、ホタルは何故光る。
恋をし、子孫を出来るだけ多く残すためであろう。
人間たちの鑑賞に供するために光っているわけでは決してない。
そして、その光るという行為は、自然が豊かだからとか、環境がすばらしいからだとかは全く関係ない。
養殖したホタルを放せば、付近に毒ガスがあるなど環境が極端に悪くない限り、人間が鑑賞に訪れることが出来るようなら、よほどのことがない限りホタルは光る。
ホタル=すばらしい自然環境というマスコミの報道及び人々の思い込みは間違いである。
要は、自生したホタルか養殖したホタルを放したのかでは大きな違いがある。
都心に近い多くのホタル鑑賞では、養殖ホタルの比率がかなり高いと思われる。
つまり、それらは、見世物であって、自然とは全く関係ない。
田圃や水路の脇でホタルが飛ぶと、そこで自生し復活したかのように見えるが、それはトリックに過ぎない。
こうしたホタル鑑賞の夕べを、金儲けや教育を目的として業者や専門家が囲われた閉鎖的な空間で行なうことには、私は全く反対しない。むしろ、ホタルが光ることを知らない子どもたちから、昆虫学的興味を引き出すためにはむしろ積極的に行なうべきであるとも思う(無論、周囲に拡散し生態系を破壊することがないような一定のルールの中でではあるが)。
ところが、マスコミや幻想を抱く人、あるいは観光客を呼び込みたい人たちは、「自然の中の幽玄の世界」にこだわるため、養殖ホタルを平気で自然の中に放し、あたかも自生し、復活したかのような表現をしたがる。
ホタル鑑賞の夕べのために、何千、あるいは何万という養殖ホタルが放たれる。
前年のホタルが何匹生き延び、自生の芽が出てきたのかなど、基礎的な調査はほとんど行なわれないまま前年以上の客集めのため、大量のホタルを放つことに力を注ぐ。
ホタルは、恋をし、子孫を残すために光るのである。
つまり、子孫を残せる環境でないところに放されても、全く、無駄なのである。
むしろ、この環境に放たれたために、子孫を残せないまま死んで行くことになるのである。
人間のエゴのために養殖され、そして、放たれて死んでいく。子孫は、養殖でしか残っていかない。
「綺麗」「自然はすばらしい」と、光るホタルを見て人間が喜んだ場所は、ホタルの墓場でしかないことになる。思いを遂げられない墓場でのホタルの怨念の光に人々は酔いしれるのである。
こうした「ホタル鑑賞の夕べ」を自然保護団体がやっているところもある。
「この地に、ホタルの復活を」との御題目で観光資源に飢えた自治体を巻き込んで行なうこともあるようだが、「ホタルが復活した」との話はあまり聞かない。
十年以上同じようなことを行なっていて、未だに「養殖ホタル」を放しての「ホタル鑑賞の夕べ」なのいである。
自然保護団体だったら、研究し、勉強し、調査し、自然環境の改善を進めるという地道な活動が「ホタル復活」の近道、あるいは「復活は難しい」との結論に至るのだろうが、未だに、ホタルの墓場にホタルを放し、命を無駄にしているのである。
この季節になると、いつも憂鬱になる。そして悲しくなる。
各地で「ホタル鑑賞の夕べ」みたいなものが開かれる。
何人の人が訪れたとか「自然のすばらしさを感じた」とか、新聞記事やマスコミが取り上げることが多くなる。
そして子供たちは口々に「綺麗だった」とかたり、大人たちは「自然はすばらしい」と。そして主催者は多くの人が訪れたとほくそ笑む。
ところで、ホタルは何故光る。
恋をし、子孫を出来るだけ多く残すためであろう。
人間たちの鑑賞に供するために光っているわけでは決してない。
そして、その光るという行為は、自然が豊かだからとか、環境がすばらしいからだとかは全く関係ない。
養殖したホタルを放せば、付近に毒ガスがあるなど環境が極端に悪くない限り、人間が鑑賞に訪れることが出来るようなら、よほどのことがない限りホタルは光る。
ホタル=すばらしい自然環境というマスコミの報道及び人々の思い込みは間違いである。
要は、自生したホタルか養殖したホタルを放したのかでは大きな違いがある。
都心に近い多くのホタル鑑賞では、養殖ホタルの比率がかなり高いと思われる。
つまり、それらは、見世物であって、自然とは全く関係ない。
田圃や水路の脇でホタルが飛ぶと、そこで自生し復活したかのように見えるが、それはトリックに過ぎない。
こうしたホタル鑑賞の夕べを、金儲けや教育を目的として業者や専門家が囲われた閉鎖的な空間で行なうことには、私は全く反対しない。むしろ、ホタルが光ることを知らない子どもたちから、昆虫学的興味を引き出すためにはむしろ積極的に行なうべきであるとも思う(無論、周囲に拡散し生態系を破壊することがないような一定のルールの中でではあるが)。
ところが、マスコミや幻想を抱く人、あるいは観光客を呼び込みたい人たちは、「自然の中の幽玄の世界」にこだわるため、養殖ホタルを平気で自然の中に放し、あたかも自生し、復活したかのような表現をしたがる。
ホタル鑑賞の夕べのために、何千、あるいは何万という養殖ホタルが放たれる。
前年のホタルが何匹生き延び、自生の芽が出てきたのかなど、基礎的な調査はほとんど行なわれないまま前年以上の客集めのため、大量のホタルを放つことに力を注ぐ。
ホタルは、恋をし、子孫を残すために光るのである。
つまり、子孫を残せる環境でないところに放されても、全く、無駄なのである。
むしろ、この環境に放たれたために、子孫を残せないまま死んで行くことになるのである。
人間のエゴのために養殖され、そして、放たれて死んでいく。子孫は、養殖でしか残っていかない。
「綺麗」「自然はすばらしい」と、光るホタルを見て人間が喜んだ場所は、ホタルの墓場でしかないことになる。思いを遂げられない墓場でのホタルの怨念の光に人々は酔いしれるのである。
こうした「ホタル鑑賞の夕べ」を自然保護団体がやっているところもある。
「この地に、ホタルの復活を」との御題目で観光資源に飢えた自治体を巻き込んで行なうこともあるようだが、「ホタルが復活した」との話はあまり聞かない。
十年以上同じようなことを行なっていて、未だに「養殖ホタル」を放しての「ホタル鑑賞の夕べ」なのいである。
自然保護団体だったら、研究し、勉強し、調査し、自然環境の改善を進めるという地道な活動が「ホタル復活」の近道、あるいは「復活は難しい」との結論に至るのだろうが、未だに、ホタルの墓場にホタルを放し、命を無駄にしているのである。
この季節になると、いつも憂鬱になる。そして悲しくなる。
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